多摩川



多摩川に 曝(さら)す手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛(かな)しき


 万葉集  巻14ー3373 (東歌)



多摩川に晒す手作りの布がサラサラと流れるように、さらにさらにどうしてこの娘(こ)がこんなにも可愛いのだろう。





古代、多摩川の流域では手織りの麻布の生産が盛んで、租税の一つ「調」として朝廷に貢納されました。調布、布田といった地名にそんな歴史を感じます。
織った布を白くするため、多摩川の清流に晒したり、日に乾したりといった作業は主に女性の仕事だったそうで、その時代の俤を探してみようと多摩川の畔まで散歩に出ました。

先ず調布市多摩川河川敷へ。
多摩川児童公園管理事務所の傍らに、川を背にして重量感のある歌碑が建っており


多摩川に 曝す手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき
赤駒を 山野に放(はが)し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆかやらむ  
( 巻20−4417)


の二首が刻まれてありました。
多摩の横山とは、上の写真の京王線鉄橋の奥に見える低い丘の連なり、多摩丘陵との説が有力です。


調布市は「ゲゲゲの鬼太郎」ゆかりの町とかで、キャラクターの描かれたバスやモニュメントに出あいました。
せっかく久しぶりに調布まで来たので、深大寺にも寄ってお蕎麦をづるづると〜 (^^)v
  



五本松 (狛江市)



次にお隣の狛江市にある万葉歌碑を訪ねました。
『玉川碑に集う会』作成の由緒によりますと、最初の碑は、もと老中 松平定信(白川藩主)の筆による万葉仮名で、根府川石に刻まれ、文化二年(1805)に多摩川堤防に建立されましが、文政十二年(1829)の大洪水により堤防が決壊し碑も流され、行方知れずになりました。その後はすっかり忘れ去られていたのですが、大正の頃に見つかったこの歌碑の拓本をもとに、渋沢栄一等が中心となってその文字を小松石に彫り、大正十二年(1923)に再建された、ということです。
今、歌碑は、川から少し離れた住宅地の一角にひっそりと佇んでおりました。


小田急狛江駅前にある、多摩川の万葉歌をイメージして制作された少女像。
 横浜、山下公園の「赤い靴」の女の子像に似ているような。目線が全く違いますけれど。



狛江市中和泉にある万葉歌碑





目に入るコンクリートの建物や橋は無いことにして、河川敷で遊ぶ人々を布を晒す女性たちに置きかえると
その頃の暮らしの情景が少し見えたような気がしたのでした。